小3春 「中学受験」の意味、「文化祭」
小3を迎えようとしていた頃、「中学受験」について、細かく、きちんと話をした。
我々両親の考え、希望を伝え、中学入試を受け、学力的にレベルの高い中学校に進学することの意味、必要性を話した。長男本人は、特に驚きもせず、嫌がりもせず、「ふうーん」という感じだった。
まあ、この年齢では、正直、よくわからなかったと思うし、半ば、親の決めたレールに半強制的に乗せられたというのが本当のところだろう。(がしかし、今現在社会人となった長男は、「あの受験があって、今の友達や環境、今の俺がいる、あれはあれでよかったんだと思う」、と言ってくれている。ほっとする。)現実的に、リトルスクールのお友達の間でもすでに「受験」の話が出ていたらしく、なんとなく、自分もそういう一員なんだと刷り込まれていたようだ。
その時点で、どの中学を受けさせるかなどというのは、夫婦二人とも全く考えていなかった。親としての「志望校」がとりたててあったわけでもない。
忘れもしない小3になった5月のゴールデンウィーク、本当に何か理由があったわけでもなく、思い立って「麻布中学・高校」の「文化祭」に親子三人ででかけた。その当時も難関校の「御三家」の一つで、成績の良い男子には、「開成」と並んで人気のある学校だった。が、まだ、その時点では、長男本人は、「御三家」だとか、「開成」なんて、なにも知らない状況だった。
が、この日を境に、長男の「麻布熱」が始まるのである。
日比谷線の広尾駅から伸びる人の列、制服の女子高生の群れ。有栖川公園の横の道に人が溢れていた。有栖川公園の出口付近から突如現れる赤や緑、様々なカラーに髪を染めた男子たち。それがあの超難関校の麻布の生徒たちだと認識するまでに時間はかからなかった。「勉強のできる男の子」のイメージとはかけ離れたルックス、におののきながらも正門を入った。これが、母親の私にとっての麻布との初めての「出会い」だった。
制服もなく、「自由」な学校、という最低限の知識はあった。生徒主体で運営する「文化祭」には、毎年、学校関係者、その他でトータル約1万人近く来場するらしい。中高校で・・・、びっくりである。
都心のどまんなかにある校舎は、伝統を感じる古い建物で、趣があった。口の字の校舎のまん中にテニスコートもある「中庭」があり、裏に回ると六本木ヒルズが間近に見える都心の割には意外に広い土のグラウンドがあった。
校舎の中では、いろいろな団体、部活が教室を使って模擬店を出していて、特に、「生物部」の教室にはたくさんの人が溢れていた。生きている「蛇」がいたり、細かく丁寧な「展示」には、やはり、「知性」が溢れていた。
「物理部」、「化学部」は、入試を控える、麻布を目指す小学生の男の子たちが興味深く、その「実験」や「体験」に群がっていた。長男もここで、「コンセント」を在校生に手伝ってもらいながら作成、大事そうに持ち帰ったのを記憶している。中庭のステージでは、例の、髪を染めた在校生たちで、異様に盛り上がっていた。異様な「興奮」と、「ひとひと」・・・。
おばさん、おじさんたちにはなかなか理解できない独特の雰囲気が全体に漂っていた。
「文化祭」の帰り、「麻布」が、超難関校であることを長男に説明し、感想を聞いてみた。「絶対に麻布に行きたい、どんなに難しくても、一生懸命勉強して、合格するよ。」「あの学校の雰囲気がたまらない。」と言った。
そこから、4年間、長男の「麻布」に対する「思い」が色褪せることはなかった。
親としても、何ら問題はなかった。もともと、中学受験させる理由が、優秀な子たちの集まるレベルの高い、良い環境に子供
を通わせたい、大学進学率の高い学校に行かせたい、というのが大きくあったわけだから、その点、麻布は、全てをクリアしていたのだから。
ただ、いかんせん、当時、麻布は偏差値65以上だったので、ものすごく大変な受験勉強になることを本人に理解させる必要がまずあると思っていた。
この日から、「中学受験」を半ば楽しみに勉強する長男の姿があった。「あの学校に行くためには、人より何倍も勉強して、勉強ができなきゃいけない」という現実を頭では理解するようになっていた。
あの文化祭で、息子にとって、麻布の「何」が、そんなに「刺激的」だったのかは、いまだにわからない。
ただ、この小3の文化祭をきっかけに、本人が「第一志望」を「麻布」にし、実際の入試まで、ひたすらこの学校を思い続けたことだけは間違いない。そしてその揺るぎない気持ちが、「合格」へ近づけたことも間違いない。