あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

6年  追い込み

「センター」でいい結果が出てから、モチベーションがあがったのか、以前にも増して、懸命に勉強するようになった。
ここから、息子の成績はぐんぐん伸びていった。6年の10月頃から、入試直前まで、いい調子で、偏差があがっていった。それまでの「伸び悩み」が嘘のようだった。じっくり耐えて良かったと思った。
逆に、ずっとトップを走ってきた子たちのスランプもあった。成績アップの時期はその子によって全く違うのだ。

9月のセンター試験以降、偏差値は四科目「68」になり、「合格可能性」も、70%を切ることがなくなっていった。「麻布」が現実的に「見えて」きた・・・。


12月に入り、家庭学習の中心は「過去問」になっていった。いわゆる「赤本」(各学校の数年分の入試問題をまとめた本  表紙がオレンジ色=赤色なので、「赤本」という)の問題を解き続けた。
校舎長、担任から、「麻布」は、10年分解くように言われた。そして、「過去問」は、6割とれればOKですよとアドバイスをもらった。
当時は、勉強の手伝い等はすでに何もしていなかったが、12、1月の最後の追い込み期間は違った。「過去問」、「赤本」に関しては、「赤本」をコピーし、「結果」を表にしたノートを私が作った。そのノートに、やるべきこと、「最終課題」を書き抜き、やり終えた項目にチェックを入れていった。「過去問」のついては、最初はなかなかできずにいた。
「麻布」の「国語」の長文は、これでもか、というくらい、文章が長く、時間内で読み切るのに四苦八苦。ただ、「麻布日特」で、「国語はまず、問題から読み始めなさい、最初に文章を全て読んだりしたら、問題を解く時間はありませんよ」とアドバイスされていたらしく、息子も問題から読み始めていた。誰でも「点」が取りやすい「漢字」の問題はわずか数題しかなく、穴埋めも単純なものはなにもなかった。大人にとっては、吐きそうになるくらいの長い問題文と、長文が見え、解答欄も、大きな記述の枠が大きくとられていた。

「算数」も、大きな「記述」の解答欄が目についた。「社会」「理科」も同様だった。
息子は乗り越えたとはいっても、この頃も「算数」が一番不得手だったので、配点の高い「国語」で点を稼ぐのが必須だった。
学校の校風同様、入試問題も「個性」が強く、合わない子には全く解けないような特徴があったらしい。
が、息子には、「運命」だったのか、「麻布」の問題がすっぽり合ったらしく・・・(入学後も良く言っていた)、普段の「カリテ」や、「模試」の問題よりもすらすらと解ききっていった。
「国語」の記述は、「解答」を見ても点がもらえるかどうかがわからないので、日能研の国語の講師にその都度、添削、見てもらっていた。「答え合わせ」は自分でし、点数を出し、その年の「合格最低点」と照らし合わせた。
その結果を私のノートの表に、「合格」なら〇、「合格には遠い」ならバツをつけ、ノートをみれば、すぐにわかるようにした。息子は2009年に受験したので、1998年からの10年分を入試直前までに解ききった。


結果、ほとんどが6割を超え、表に「〇」が並んでいった。いよいよ現実的に「麻布」が見えてきた。
もちろん、「渋幕」や、「早稲田中学」の過去問も7,8年分解いた。息子には、「渋幕」の問題が一番解けず、苦戦していた。「5割」の出来だった。当時の渋幕は、偏差値も70近く、超難関校になっていたので、こんなものかな?と感じていたが、息子曰く、「渋幕の問題ができなくても関係ないから」と冷静に結果を分析していた。「早稲田」は、大体順調に6割を超えた点数で推移していた。時間もなかったので、「東邦」や、「市川学園」の過去問にはとりくめなかった。「芝」も同様で、とにかく、「麻布」の対策、「過去問」に時間を割き、間違い直しも丁寧に行った。