あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

小5から6年へ   「麻布日特」   

日能研に通い始めて1年。あっという間だった。あっという間に5年になり、日能研も週3日くらいになった。この頃から夕方から、夜の9時くらいまでの授業になり、夕飯は、塾で食べる、いわゆる「塾弁」をもっていくようになった。
塾で食べる「お弁当」である。「夕飯」だし、勉強の合間に食べるわけだから「温かいもの」を食べさせたい・・・などといろいろ考えた。結果、お弁当箱を保温のきくものにし、「ご飯」だけでも温かく食べられるようにした。短時間でお腹も適度にいっぱいになるもの、「丼もの」が多かった。「牛丼」や、「照り焼き丼」「そぼろ丼」「親子丼」など・・・。それに、卵焼きやフルーツをつけた。当時は、前述の通り、私も自宅で仕事をしていたので、合間にぱぱっと作って持たせていた。
こんな生活が、入試まで続くんだなあと思うと、なんだか、少しかわいそうに思うことも少なくなかった。

夕方、学校から帰宅、学校の宿題を短時間で済ませると、すぐに塾に向かう生活だった。

もちろん、週末の「カリテ」も続き、ハードな生活だった。5年の1年間もクラスを落ちることなく、だけど、相変わらず、一番にはなれずに…過ぎていった。
校舎長や、担任との面談も割と頻繁にあった。これにはとても感謝していた。特に「担任」は、「成績」だけでなく、塾での息子の学習態度や仲間とのコミュニケーションにまで、目を配ってくれた。校舎長は、冷静に「客観的な視点」で指摘をしてくださり、何をすべきかがよくわかった。「受験に対しての不安」があった時には、すぐに相談にのってくれた。すぐに「面談」の時間を作ってくださった。塾での息子については、塾のスタッフにしかわからない点がたくさんあった。息子の「入試への不安」や、「様々な葛藤」をよく理解して下さり、息子の「性格」と照らし合わせて「意見」をくださった。これには、常にものすごく感謝していた。全面的に「信頼」できた。


5年にもなると、問題もかなり難しくなってきていた。「算数」は特にだった。息子は「算数」がどちらかといえば不得意だったので、毎回の「カリテ」でもなかなか点数をあげることができずにいた。ひとつの「課題」だった。

「国語」、「社会」は点数が順調に上がり、典型的な「文系」の状態だった。

当時は、前述した通り、理系出身の父親に「算数」を見てもらい、繰り返し間違える息子をたしなめる父に対し、「泣きながら」問題を解くこともあった。
今思えば、問題を解けない息子を泣かせてしまうこと自体、いかがなものかと思うが、当時は、息子も父も必死だったんだと思う。息子は、「出来ない自分」にいらだって泣いてしまったんだろう。5年の夏休み、「来年は、絶対に行けないね」と、家族旅行に出かけた。小学校時代の夏の家族旅行はこれが最後だった。もちろん、長い長い、「夏期講習」もあった。5年の夏の終わり、「模試」の結果、まだまだ、「麻布」の合格可能性は、50%でしかなかった。が、

成績の波はありながらも、コンスタントに偏差値「60」を切ることはなく、いよいよ6年を迎える。


日能研の6年は、週4日の授業!、それとは別に日曜に、各志望校別の「日曜特別授業」(通称「日特(にっとく)」があった。「難関校」には、各学校、入試問題に大きな「特徴」、「傾向」があって、それぞれ、その目標校の問題に合わせた「対策」が必要だった。それを学校別に日曜の午前中に学んでいく授業だった。当然、その「授業」は、レベルの高いものになるので、その「クラス」、「授業」を受けられる実力が必要だったため、「授業」を受けるための「資格」を得る「試験」があった。この頃になると、もう、なんでも「試験結果」だ。


息子は「麻布日特」を希望、試験を受けた。「日特に行けないようなら、第一志望は、早めに変えたほうがいいですよ」と、校舎長や担任から言われていた。試験では、四科目の偏差値「65」が合格ライン、必須だった。

この試験のための勉強は特にはしなかったが、なんとか「65」をたたきだし、「麻布日特」への切符を手に入れた。
嬉しかった。ほっとした。息子も素直に喜んだ。「麻布への道」がうっすらと見えてきた気がしていた。