あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

日能研の仲間、ライバル

息子は、日能研において、「Rクラス」からクラスを落ちたことは結局3年間一度もなかった。成績上位の子たちの顔ぶれも結局3年間変わることはなかった。これは、男子も女子も同じだった。
日能研は、教室での座席位置も前の週の「カリテ」の成績順で、端から1番・・となっていた。嫌でも成績結果が皆にわかってしまう状況だった。これを、辛く思うか、モチベーションにするかは、その子次第だった。
息子は、そのシステムを嫌がるでもなく、どちらかというと、楽しみ、モチベーションにしていた。クラスの顔ぶれは変わらなかったが、成績は、わずかの差で上下することが多かった。だが、男子も女子も、大体1番になる子は決まっていて、その子を抜かして上位に食い込むのが、毎回のミッションのようなものだった。要は、「彼ら」は「ライバル」だった。いい意味で、毎週、「切磋琢磨」していたように思う。
ただ、現実はなかなか追い越すことができず、もがいた。彼らはどれくらい、どんなふうに勉強してるのだろうか?と、いつも興味があった。ある時、ほぼ毎回トップの子のお母様と話す機会があったので、正直に聞いてみた。
が、やっていることはほぼ同じで、何ら特別なことをしているわけではなかった。だとしたら、もう「資質」の問題だ・・・と思わずにはいられなかった。


さすがに、こんな状況になると、息子も周りの仲間の点数や、偏差値を気にするようになり、自分との「差」を悔しがり、「もっと、もっと」という心境になっていった。小5を迎えた頃、周りの子たちもほぼ第一志望校を決め、目標に向かってひたすら勉強に取り組んでいた。「Rクラス」の子は、男子は「開成」「麻布」「渋谷教育学園 幕張」(「渋幕」)、女子は、「桜陰」「女子学院」「渋幕」を志望校に据える子がほとんどだった。
千葉在住の子ばかりだったので、どうしても、地元の最難関校「渋幕」は、超人気だった。(この頃から、渋幕の大学進学率は目覚ましく、千葉県民でなくても、大層な人気校だった)。
息子はもちろん「麻布」一点狙いで、他の学校に気持ちを移すことは全くなかった。「開成」にも手の届く位置にいたが、不思議なくらい、「開成」に目をむけることはなかった。私達親も・・・。


数か月毎に、「全国模試」「センター模試」があった。5年の頃から試験に臨む時に、第一志望から、第六志望校くらいまでをエントリーし、試験結果ででた、「偏差値」から、合格可能性のパーセンテージが示されることになった。
小5の頃、偏差値は毎回4科目で「60」は超えていたのだが、大体、「麻布」の「合格」可能性は、常に「50%」にも満たなかった。息子も私たちも麻布の「難易度」を痛感することになる。溜息がでた。
「どれほどの点数をとればいいのか」・・・と、わけがわからなくなった時期もあった。