あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

学校の友達、ママ友、授業

息子は学校の友達ともよく遊んでいた。が、日能研が始まり、現実的になかなか周りのお友達と時間が合わなくなり、放課後に遊びに行く時間は劇的に減っていった。でも、そのことに対して、文句をいうこともなく、塾を休むこともほとんどなかった。
ただ、周りのお友達からは、「いつもどこ行ってんの」などと質問されていたようだった。当時、クラスでも、息子は、「勉強のできる子」とクラスメートから言われていたので、「塾に通っている」
と言ったところで、不思議がられることはなにもなかったのだが、息子の通う小学校ではこの当時は、中学受験をする子はまだまだ少なく、どういう目で見られるかが未知だったので、あまり、自分からは言わないようにしていた。

ただ、息子本人は前述したように、ひたすらマイペースで、「我関せず」の子だったので、周りからどうおもわれているかなんて全く気にもしない子だった。
現実、この時点で、塾に通っている子はほとんどいなかった。


母親である私は、ごく普通に母親同士のお付き合いをしていたが、「ちょっと違う」とは思われていたようだ。「何の習い事をさせてるかはわかんないけど、放課後はとっても忙しそう」「勉強が妙にできるけど、何やってんだろ」みたいな感じだ。地元で育ってきた人が多く、地元の中学校や、または、その小学校出身者も多くいた。高卒で、千葉県内に就職という方々が多かったので、正直、夫婦揃って都内出身で、大卒の私は、なんだか話が合わないと感じることも多々あった。根掘り葉掘り聞かれるのも面倒だったので、自分から「勉強」や「習い事」について話すことはなかった。いいように言われることはないことは半ばわかっていたから。面白おかしく「噂」されるのも面倒で嫌だった。「勉強ばっかさせて、なんだかなあ」と言われたり思われるのが落ちである。それでなくとも、ECCのホームティーチャーをしていることで、「とっても知的なお仕事」などとうっすら「嫌味」を言われたこともあったので。
周りが中学受験をさせることを実際に知ったのは、小5の後半だったと思う。それまで、黙っていて良かったと本当に思った。
ただ、小学校の担任には、4年の頃から話していた。「○○君は、そのほうがいいですよ」と理解を示してくれた。担任は、4年から6年まで同じ先生で、息子をとても高く評価してくれていて、都内の私立中学についても詳しい先生だった。受験に関しても、「合格できるよう、頑張らせてください、塾の勉強をしっかりと」と、応援してくれた。

この頃、「塾」の学習内容は明らかに学校よりも何倍も進んでいて、学校の授業がつまらなく感じても仕方のない状況だった。また、学校は、当然、「理解できていない子」に照準を合わせて授業していくわけだから、息子にとっては、事実、それはそれは「退屈」な時間になりつつあった。が、私は、「簡単、わかって当たり前、と思っても、学校の授業は、基本中の基本、しっかり聞きなさい」と再三話した。事実、「授業態度」は、悪くはなかったようだ。特に、「社理」は、本当に基本の授業なわけだから、「基本の確認」にはとても都合よかった。
よく、学校の授業中に、塾のテキストを読んだり、問題を解く子がいると聞くが、言語道断、だと私は思う。学校の「簡単な授業」で、「基本の確認」をし、塾の「レベルの高い内容、問題」は、家で、じっくり取り組むべきなのだ。「無駄な授業なんてない」、と私は思っている。

小4の頃は週1で日能研に通っていたと記憶している。

夕方から、割と早い時間、8時くらいまでの授業で、帰宅してから、夕飯を食べていた。
私は、当時、小学校に入学したばかりの次男と二人で夕飯を食べていた。そして、最寄りの駅まで車で迎えに行っていた。