あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

6年  「早稲田日特」

やや成績を上げ、気分良く6年を迎えた。この頃からお世話になった校舎長が別の方に変わり、スタッフも異動などで、大きくかわってしまった。
6年も「出だし」は無事「Rクラス」で。3年間、別のクラスに落ちることなく、同じメンバーの「Rクラス」で過ごすこととなった。
4月、まず最初に、志望校別で日曜に特別対策授業をする「日特」の「早稲田日特」の資格を得るべく「試験」があった。基準は、4科目平均偏差「60」だった。
この時点でぎりぎり「60」にのるかのらないか危うい位置にいた次男は、「大丈夫かなあ、入れなかったら、悲惨」とネガティブな心境で試験に臨んだ。
5年後半で頑張った「基礎固め」を信じ、私も期待していた。確かに、この「日特」に入れないとキツイなあと、思っていた。対策、学校別のノウハウを学ばないと、「難関校」は難しい。親では、実際、どうにもならない。


心配をよそに、「早稲田日特」の試験をパス、親も子もほっと一安心だった。「日特」のクラスは、それなりに成績上位の子たち、他校舎の上位者が集まる場所なので、「同じメンバー」での授業に慣れていた次男にとっては「刺激」のある「日特」になった。「早稲田を目指す子」がこんなにたくさんいる、他の塾の志願者もたくさんいるという「現実」が、さらに、「やる気」を起こさせた。
「日特」の復習は、普段よりも熱心で、自らすすんでやっていた。授業では、早稲田の「過去問」を多く扱うので、実際の入試問題を少しだけ感じることができ、全てが「いい刺激」。様子を見ていると、早稲田の問題を、サクサク解いていた。「問題が合ってるのかも」と感じたが、本人には一切言わずにいた。この時期に「調子に乗る」のが一番怖かった。


「学校」では、「中学受験」の話も出始め、次男が受験することは、「周知の事実」だった。
偶然にも6年の担任が、長男の時と同じ先生で、前述のように、受験に対し、「理解」のある先生だったので、大変助かった。
夏休み前の個人面談で、「早稲田を第一志望にしている」旨を伝えると、「○○くんに合ってますよ」というおススメの言葉をいただいた。夏休みをうんと頑張らせるよう、励まされた。


日特の復習を丁寧にやり続けたおかげか、夏休み前に成績をさらに上げてきた。偏差「60」を切ることはなくなってきていた。「順調」だった。「麻布」に通う長男が「いい感じじゃん」と口にしていた。
長男は先述したように、「早稲田中2次」を不合格になっていた。麻布の周りのお友達にも早稲田の2次を受験した子は沢山いたが、不合格だったのは、実に長男だけだった。また、息子たちの従兄、私の甥も、数年前に早稲田を第一志望で受験、やはり、不合格だったため、「「早稲田」に縁がない」感が漂っていたが、逆に「リベンジ」「俺が受かってやる」という思いが次第に次男の中で強くなっていった。


夏休み、「夏期講習」はやはり、かなり「ハード」だった。皆がこの時期に成績をアップしてくる、「競争激化」の期間。
「塾」と、「家庭学習」の時間のやりくりがポイントになる「天王山」。