あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

秋、冬  近づく入試

6年の夏が終わり、日に日に「入試」へ近づく日々を実感、「塾」では、夏が終わるとすぐに、「冬期講習」の申し込み開始。なんだか、「気」ばかり急いてしまい、落ち着かぬ日々のスタートだった。
秋には、何度となく「模試」が繰り返され、否応なく、「志望校」への「判定」が繰り返された。

次男の学校でのクラスには「中学受験」をする子はほとんどいなかったので、「受験??」という感じで珍しく思われたが、学校全体では、明らかに長男の時よりも中学受験者が増えていた。
日能研でのクラスも特に変わることなく、6年、週4日の通塾を普通にこなしていた。次男の時は、家に「自家用車」がなくなっていたので、次男は最寄りの駅から自転車で帰宅、「お迎え」をすることはなくなっていた。
長男の時と同様、日能研の「スキャン」システムで、塾を出る時間は自動的に通知されたので、大体の時間に玄関を開けて待ってやっていた。
同じ「Rクラス」のお友達が、ごく近所に住んでいたので、(小学校は別)駅から一緒に帰宅、一層、安心できた。
その子は、「開成」が第一志望だったが、仲良しだったので、いろいろな意味で、「切磋琢磨」できた。


秋口の「模試」で、劇的に偏差値が伸びることはなかった。
「60」に届くか届かないかの位置で推移していた。
家庭学習は、通常通り続けていた。が、意外にも伸び悩んでいた。「どの時点」で、「スパート」をかけていくのかが難しいポイントだった。「算数」は相変わらず得意科目で、夏休み以降、ぐんぐん偏差も伸びた。
「国語」は、「記述」力がいまいちだったが、日能研の先生からは、特に心配ないレベルと言われていた。
「社理」は、暗記の「社会」がいまいちのび悩み、私との「一問一答」は、この時期でも欠かさずに繰り返していた。
「算数」は、「やればやるだけ」成績が目に見えて伸びたが、「国語」は、そういう科目ではなく、「短期」で、伸ばすのは難しい科目だった。


ただ、本人の「家庭学習法」は、すっかり定着していたので、余計なことは言わず、見守っていくことにした。(実は、これが一番難しいのだが・・・)
秋も深まってきた11月頃は、「早稲田合格可能性」は、60から70%だった。そういう意味では、「順調」だった。

12月に入り、周りも「赤本」(過去問)をスタートさせたので、次男も始めることにした。
「早稲田中」の「赤本」を購入、長男の時と同様に、「結果」と「その年」の合格最低点」との比較で、「合格できるか否か」を記入するノートを作成した。「過去問」は、平均7、8年分やるよう言われていた。

直近の年度から始め、さかのぼっていった。
この「過去問」の出来が、驚くほどだった。
「模試」の結果等で、7割の「合格可能性」を疑問視していた私だったが、「過去問」を始めて、改めて感じた。「いけるかも!」。

12月の半ばに「面談」があった。実質、「入試前」「最後」の面談である。私と日能研のクラス担任、校舎長との「三者面談」だった。
「過去問」は、定期的に担任や、担当科目講師に提出していたので、「過去問の結果」はよくわかってくれていた。

「かなり調子よく解けてますねえ、大丈夫、ご本人に当日、よほどのことがない限り、いけそうですよ」と言われた。

にわかには信じられなかったが、「よし!!」という気持ちに私も
なっていた。「あんまり心配するのもやめよう」と思い始め、本人にも前向きになるような言葉を伝えた。

本人も「よし!絶対受かってやる!!」という気持ちになっていたようだ。

「良好な状態」で「冬休み」に突入することになる。
千葉御三家」の「過去問」も解き始め、こちらは、「渋幕」以外は順調に。(渋幕の難易度は抜きんでていた)