あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

6年   「麻布への道のり」1

いよいよ6年を迎え、あと「1年もしないで、入試がやってくる」と、親にも子にも話があった。6年の教材を受け取り、改めて気落ちが引き締まった。「絶対に合格!させないと」と、まるで自分の受験のように気持ちが高また。しかし、振り返ると、本当に親子で悩み、苦しみ頑張った1年間だった。いまでも、あの息子の頑張りは昨日のことのように思い出され、涙も出てくる。
春から、3年になった次男が、「四谷大塚」の「リトルスクール」から、長男よりも1年早く「日能研」に入塾していた。
3年の次男は、お迎えに行っていたので、時折、長男の姿を垣間見ることもでき、わたしにとっては、貴重な時間だった。
6年は、想像以上にハードな毎日だった。


この頃になると、もはや、私は何も手だししなくなり、自分できっちり「学習」するようになっていた。夕方、学校から帰宅と同時に、お弁当を持って「日能研」へ。夕方5時くらいから夜8時半過ぎまでの授業。家に帰宅するのは、9時半頃だった。我が家は、日能研から新京成というローカル線で最寄り駅から10分、徒歩で10分の場所にあったが、最寄り駅までは車で迎えに行ってやることが多かった。この頃からは「携帯電話」も持たせ、GPSで、「今現在いる場所」がわかるようにしていた。また、日能研側でも、教室に入った時間をスキャン、校舎を出た時間をスキャンすることで、ちゃんと塾に到着したか、また、もう校舎を出たか、が親にわかるシステムになっていたので、安全面での不安はなかった。


9時半頃帰宅すると、まず入浴、そして、「学校の宿題」を終え、日能研の「復習」をした。「学習法」は、既に自ら作り上げていたので、もう、本人に任せていた。この頃は校舎長からも、「もう、自分で勉強できなければいけません、自分から教材を開いて机に向かう、自分でやるべきことがわかっている、状況でないと、難関校なんて合格できません」と言われていた。
全ての勉強は、リビングのテーブルで行っていた。
二階の自室に学習机はちゃんとあったが、我が家の息子たちは二人とも勉強に、学習机を使用したことはない。それは、この春、社会人になった長男も社会人になるまでずっと・・・である。
極力、テレビの音は小さめにしたが、特に「音がうるさい」と言われたこともなく、「集中」していると、さほど気にならなかったようである。「間違いノート」は相変わらず作っていて、6年になると、その数は10冊以上になっていた。長男の日能研のテキストは、どれもメモで、「真っ黒」だった。その「メモ」を、帰宅後、授業を思い出しながらノートにまとめる作業は、日々忘れずに行っていた。