あこままの中学受験奮闘記

長男、次男、それぞれが東の御三家、千葉の御三家に入学、今や、それぞれが新社会人、大学2年生に。小学校入学から決めていた中学受験へ向けての親子二人三脚の奮闘記

中学受験その後

わが家の二人は結局、長男は麻布から慶應大へ現役で。次男は現役で、東京理科大学へと進学しました。二人共、大学受験勉強を本気で本格的に開始したのは、高校3年からでした。
結局、二人共、予備校にも通いました。長男は、高2の時に受けた河合塾の模試の結果が散々で、偏差値は驚くなかれ、50をきるほどでした。あれほどの偏差値で中学受験した子が・・・と、親の私も驚いてしまう結果でした。

が、本人が「本気」になると、なんとかなるもので・・・、結局は、約半年少しで、自力で、偏差値を約20以上上げ、現役合格を果たしました。
麻布の子は、多くの子が、高校から月1回で始まる「実力テスト」(通称「じつりき」)で出される現在の偏差値を見て親子で「愕然」とし、それでも、「大丈夫、なんとかするから・・・」という子供の言葉を親がどこかで「大丈夫、きっと・・・」と信じ、結果高校3年の春頃から真剣になり始め、それでも、なんとか「帳尻」をあわせてくるパターンが多いのが現状。中学時代からコツコツ「東大」を目指し、勉強を続ける子ももちろんいるけれど、大体の生徒は前者。
それでも、学校側も「彼らは地頭がいいからほうっておいて大丈夫です」(地頭(もともとの能力))なんてずっと話しているから親もどこかで安心、「そんなもんかも」なんておもってしまっているのが、麻布の保護者なのである。
一方、市川学園は、真逆。学校側はとにかく、国公立現役合格者数を少しでも増やしたいので、学校として、進学指導は熱心。
親もなんとか、一流大へ、一流国公立へ・・・と心から希望している数がとても多いので、高校進学と同時に、予備校の心配や、模試の結果に一喜一憂するようになっていく。ただ、入学時に、「予備校に行く必要はない」と話されたが、結局、現実は8割がた、どこかの予備校に通う。学校の授業だけで大学受験突破なんて結局は不可能なのである。「現役、現役」と学校は言うが、結局は学年の半分は浪人に。が現状。現役進学率は中学受験時に聞くほど、高くはない。
市学の生徒も高校3年ぎりぎりまで部活をやり切る子供は想像以上に多く、例外を除き、本格的に受験勉強を始めるのは、高校3年になってからが多い。また、高校2年次に分けられる「選抜クラス」と「一般クラス」の進学先や進学率に大きな「差」があるかといえば、正直、大きな「差」は全くない。だから、躍起になって、勉強し、「選抜」に入る必要もない・・・というのが実情のような気がする。「選抜クラス」は、日々のクラス授業が先取りで、難解らしいので、それを上手に使いこなせないなら、「一般クラス」でのんびりと部活に身を入れる生活をした方が子供によってはいいかもしれないと思う。


次男も受験勉強を本気ではじめたのは遅かったが、なんとかなるもので、第一志望校であった東京理科大学へ現役で合格、進学できた。なかなか良き判定も出ず、予備校も講習のみ通った次男にしてみれば、親としては「奇跡」であった。ただ、市川は、理科大への進学数が、なんと日本で一番多い!学校らしく、周りの友人でも理科大へ進学する子が多く、学校でも、「理科大は当たり前」のスタンスなので、担任に報告しても特に褒められたり、喜ばれることもなく、入学式も市川時代の友達が山のようにいるため、実際には「代り映えのない大学生活」に突入するような感じになる。新鮮味には欠けるのかもしれない・・・。


こうして、結局、長男は慶應へ、次男は理科大へ進学。世間から見れば「優秀」な兄弟なんだろう。
大学時代は兄弟そろって充実しているようだが、結局、親友だったり、心おきなく遊ぶのは麻布や市学の友人たち。
だからこそ、思春期や多感な時期を過ごす中高時代は環境が大事。偏差値の高い学校に「いい子」が多いなんて思わないが、家庭環境や、経済レベル、親の価値観が似たような仲間が集う環境に身を置かせてやることは正直、大切だと思う。
麻布と市学は真逆の学校で、どちらがどうとは思わないが、長男は麻布に、次男は市学に、性格的にも合っていたような気がする。



まあ、卒業したからかんじることかもしれないが・・・。

次男は兄に対して、コンプレックスをもっていたのかもしれないが、高校3時には、「市学にプライド持ってる、オレ」と言っていた。

これからの未来が楽しみ。
同じ親が同じ環境で同じように育てたのに全く違う性格、考えの兄弟。
それぞれにふさわしい学校に運命のように「合格」して、二人共まさに「青春」を謳歌した。
麻布、市学に感謝だけ。

これから「中学受験」される方へ

今まで、二人の息子の「中学受験」について綴ってまいりましたが、これは、あくまでも、わが家の体験、経験であり、全ての中学受験生や親の方々にあてはまるものではありません。
わが家はたまたま結果上手く行き、こうして語れる結果を得ましたが、誰しもが思いのまま希望通りにいくものでもありません。
忘れてはならないのは、あくまでも、主役は、たった12歳の「こども」であるということ。自分たちの大事な子供が、傷ついたり、苦境に陥ることもありうるのが中学受験です。
精神的にも追い込まれ、様々なことをたくさん犠牲にもします。
それに、耐えさせる価値があるかどうかは、あくまでも「親の選択と責任」です。
多くのことをきちんと考え、向き合えて初めて中学受験という、「しなくてもいい経験」をさせるかどうかを決めるべきです。12歳の子供に、意義のあることか、すべきかなんてわかりませんから。


兄弟受験も何かと大変です。親にはそのつもりは全くなくても、どこかで、どちらかの子供が傷ついていたりする可能性もあります。
わが家も実はそうでした。
周りが長男ばかりをあがめる中で、次男は知らず知らず、コンプレックスを抱き、寂しい思いをしていたのかもしれません。
大学生になった今となっては、次男にとってももはや「どうでもいい過去」なんでしょうが、一瞬でもそういう思いや状況に追い込んだことを親として深く反省もしています。


二人共曲がることなく、生活していることを周りのお友達、環境に感謝しています。
わが家の「中学受験体験」が、皆さまの参考にすこしでもなれば幸いです。


両学校について、ご質問等々あれば、いつでもお答えできます。

下記のメールアドレスにメールいただければ、必ず、お返事いたします。
感想いただければ幸いです。
ご拝読、ありがとうございました。



daikichimama1211@yahoo.co.jp
市川まで


みなさまの「中学受験」が成功を納めますよう、お祈り申しあげます。


市川  暁子

「この瞬間(とき)きっと夢じゃない」

二人の息子の「中学受験」の際に、息子たちの姿と重ね合わせてよく聞いていた曲がある。試験中の待ち時間、学校へ向かう電車内、息子たちと乗り合わせた車の中、受験時は、とにかくよく聴いた。そして、今でもこの曲を聴くと、あの頃の子供だった小さな息子二人の懸命な姿を思いだし、目頭が熱くなる。本人たちもこの曲を「力」にしていた。大好きで、大切な曲。SMAPの「このとき(瞬間)、きっと夢じゃない」。


    震えだした手を見つめ 高鳴る鼓動、指先まで
    逃げたくなるくらいの不安に そっとひとり瞳閉じた


    きらめいては消える夢の影
    追いかけては向かい風
    何度も諦めそうになって
    そのたびまた繋いだ夢
    いつだって背中にはそっと支える人たちの
    温かく、ただ強く
    優しい声にのせて跳ぶんだ


    ぼくらはいつだって一人じゃないんだよ
    Please stand up
    いつも感じてたくて
    だからDon't cry きっと夢じゃない
    どんなに遠く離れていても
    そばにいるから


    苦しみ悩み続けてきた
    何度も諦めようとした
    それでも歩いてきたこの道は
    たったひとつの僕の夢さ


    立ち止った雑踏はどこか似たような僕らを包んだ

    ふざけあった時間はもう戻らなくて
    言葉だって届かない
    あの日君が流した涙も
    僕ら一緒ならほら笑い顔
    僕はあの日霞む空にまた「強くなるさ」と誓った


    僕らは散らばった夢の欠片集め
    ほらSunshine高く羽ばたいていこう
    交わした誓い祈りを担い見慣れたはずの世界
    今輝いてくよ

    はみ出した涙や 流した汗が僕を支えるんだ
    言葉よりもずっと大切なもの 君に伝えたいよ
    

    歩き出した僕らの未来ならこれから先僕らで変えるから
    どんな時も諦めずただ進むよ

    倒れて見上げてた悔し涙で滲む青空
    あの頃の僕らの 夢叶えたいんだ

    僕らはいつだって ひとりじゃないんだよ
    Please stand upいつも感じてるよ
    だからDon't cry きっと夢じゃない

    どんなに遠く離れていてもそばにいるから


    言葉じゃ伝わんない 言葉じゃ伝わんない






    この曲があったから、強くなれ、諦めずにいられた。「夢」は当然、「第一志望合格」である。
    息子二人もいまだによく覚えている曲。一生、忘れずにいると思う。「音楽」は時に「力」になる。


    

母親同士の付き合い、それぞれ 

話す母親同士の付き合いも学校によって違った。私にとっては、麻布の母たちとの関係のほうが「濃密」であった。
それも、麻布は毎年変わるクラスで、必ず年4,5回の「親睦会」、「ランチ会」がある。
クラス役員によるものだが、かなり頻繁に催される。
学校の場所柄、多くは学校近辺の広尾や恵比寿あたり、で開かれ、特に中1の麻布最初のクラスにおいては、卒業後も、毎年、開かれる。それは、息子たちが社会人になった現在も引き続いている。
1回、ランチで平均4000~5000円。コースが普通だ。席は、多くはくじなどで決められるので、同じクラスのお母さま方と平均してお喋りができるようになる。
時間にして、2、3時間。学年最後のランチ会には決まって「担任」が呼ばれる。先生方も気さくに出席されるので、「面談」のない代わりに、この時に、我が子の様子を聞くことができたりする。

また、私立、いろいろな地域から通学しているので、住居のある各地域の「地区会」がある。例えば私は千葉在住なので、「千葉会」に属し、実はかなりの人数がいる「千葉会」の「ランチ会」も年に数回催される。麻布は、日比谷線東横線直通という立地もあり、神奈川方面の生徒がとても多く、神奈川在住の方は、「横浜市」在住でも、「~~区」別になるほど多数いた。
「千葉会」は、人数が多い分、開催場所も豪華で、特に新入生が入る年度最初の「千葉会」ランチ会は、わが家が入学した2009年度は、「グランドプリンスホテル」の「~~の間」で行われた。
こうなると、会費は確か7000円くらいで、正直、「負担」もばかにならない。
が、同じ地区に「ママ友」ができるととても「安心」で、学校の情報も得やすくなる利点はあった。

特に最初は、高校生のお母さま方から「麻布情報」を「生の声」で聞くことができ、「貴重」な時間になることは確か。
ただ、あまりに、出費も多く、お友達もたくさんでき始めた高校1年の頃、私は千葉会の数人と一緒に地区会を脱会した。それで困ることも、何か言われることも全くなかった。
子供と同様、親も「自主自立」的なので、会にいようが、いまいが、全て「自由」、女性同士のお付き合いでもいたって「気まま」だった。

また、部活の母付き合いも盛ん。長男は、「パソコン研究会」に所属、「プログラミング」を学び、今となっては、彼の「ライフワーク」である「DJ」もこの「パー研」で培ったもの。
よく、文化祭で、小学生にパソコンゲームを体験させている、あの部である。文化祭のゲームも麻布生が作成したもの。かなり、「オタク」的な部活だが、卒業後も部活で得たものが生かされている部員が多い。
例えば「プログラミング」の腕を磨き、「システムエンジニア」の資格を得て就職したり、「ゲーム会社」から作成した「ゲーム」の内容を買われ、ゲーム会社(例えば「任天堂」)にゲームメーカーとして就職したり、と。
息子も、趣味の「DJ」でクラブでのバイトをしたり、音響の知識を生かして欲しいと認められ、「YAMAHA」に入社した。「プログラミング大会」で優勝した部員もいた。

この「パー研」の歴代「会長」は、長年にわたり、現役「東大」となっていて、「会長」なる生徒には、「無言」の「プレッシャー」が課されていた(笑)。
そんな「会長」に息子が高2でなり、「パー研」の「母の会」の主催も自動的に会長の母である私の「役目」になった。
進入生が部活を決める春5月半ばに「顔合わせ」として「ランチ会」が通例。
部活は中高一緒だったので、ここでも、「先輩お母さま」から様々な話を聞くことができる。
「会」は、同学年の仲良しママさんたちにも協力してもらいながら、お店を決め、予約し、「会のお知らせ」をメールで部員の母親全員に配信、「出欠」をとり、メニューを決め、「下見」で、「試食」・・・と大変ではあったが、とても楽しかった。
会の当日には、入り口で、会費をいただき、ご挨拶から始めて「歓談」へ・・・の流れ。
こんな「部活」・「ランチ会」が各部活の母同志で行われていた。

先輩お母さま方に、「美味しかったわ」、「楽しかった」とよろこんでいただけることは、かなりのやりがいだった。
ここでのお付き合いは子供同志も仲良しだったりするので、「濃密」になる。

息子の1年上の会長さんが、「過去初めて」「一浪」となったことで、「例のプレッシャー」からは幸い、息子は解放されることになった(笑)。


こんな感じで、麻布では、母親同士の「会」、「集い」が本当にとても多いので、自然に仲良しもでき、プライベートでもランチに行ったりとママ友との交流が盛んにおこなわれる。
学校側からの「発信」がほとんどない学校なので、集った時に「学校情報」を「共有」することは、かなり重要だった。
卒業した今でも当時のママ友とは、とても仲良くしている。

仕事を持っている方が多く、おしゃれで、小ぎれいな方が多い。皆、知的で、話題も豊富なので、「なにかと「刺激」を受けられる。

皆、とにかく「きれい」な言葉遣いで話す。
私にとっては、誰もが「お手本」だった。
これからも仲良くしていただきたい・・・。


母親同士で、「成績」の話をするのは皆無。そもそも、本当に入学と同時に
恐ろしいほど勉強しなくなるので、「成績」を気にするのはごく一部の方々のみ。良くも悪くもどこかで、「彼らはほっといてもいつかはちゃんとやるでしょう」と、息子たちを信頼していた。
ただ、「東大」を早くから目指す子は、「鉄緑会」(東大を目指す開成、麻布、桜陰、女子学院等、一部特定の私立中学の子だけ入塾可能の東大専門塾  渋谷にある)やら、SEG(こちらも開成、麻布等の子たち特定の英語塾)に中1から通塾し、まじめに勉強していた。

麻布は、こういう「勉強をまじめにこつこつ」している子でも、「とにかく遊び、不祥事も起こしてしまう」子でも、皆がそれぞれを尊重し、仲たがいすることは一切なかった。「個性」の強い子の「集団」だったが、「はみ出す子」も、悪く言われたり、仲間外れにされることは本当になかった。

母親同士もおなじで、集まっても、女性特有の「悪口」「陰口」を言う人は不思議といなかった。
皆、「気さく」に、「尊敬」しあいながらお付き合いしているというのが、きれいごとでなく事実だった。
だから、とても気楽だった。
麻布の「カラー」なんだと思う。




次男の「市川学園」もクラス役員が選出され、「ランチ会」や「親睦会」という名の「飲み会」があった。
最寄りのJR総武線の「本八幡」駅前にたくさんの居酒屋さんや飲食店があったので、これらのお店で行われることが多かった。

時に担任も出席。
次男はソフトテニス部に6年間所属していたので、私は結局、部活のお母さま方と仲良くすることが多かった。
仕事をしている方がやはり多く、なかなか時間が合わなかったが、県内、地元に住む方がおおかったので、地元の少しオシャレなイタリアンや、フレンチに出かけた。
大会があれば、出かけた。ラインで、それぞれの状況を知らせあいながら試合を見ていた。私は中2の時にクラス役員を担当したが、この時、一緒に役員をしたお母さまとは今でも仲良くしている。
一緒にランチ会の企画をしたりと、楽しい時間が流れた。

何度かある「保護者会」の中でも、年に一度、沿線別に母親が分かれて話す「保護者会」は、有意義だった。住まいが近いと、いろいろな情報を共有でき、中高6学年が一緒だったので、近所にお友達ができたりするきっかけになった。やはり、どの学校でも、「先輩ママ」の話、情報は貴重だ。
進学の話なども先輩ママの情報は、信ぴょう性があり、信じることができた。
特に「市学」は、お母さま方が、ものすごく勉強に対して「熱心」で、中学時代から、お尻を叩いて勉強させるご家庭も少なくない。「千葉御三家」にきたからには、絶対に「超難関大学へ」という意識のお母さま方がとても多かった。また、「学校側」も、特にここ数年、進学率が上がってきたため、もっともっと「国公立大学」への「現役合格者」の数を増やしたいという思い、目標から、学校全体が「進学指導」に熱心だった。
市川は、SSH(Super Science highscool)なので、「理数教育」に「力」を注ぎ、「実験」用の「白衣」も支給されるほど「実験」の授業時間が多かった。結果、息子が進学した東京理科大への進学者数は、全国1位だったりする。

高校から入学してくる「高入生」の偏差値は「70以上」と、とても優秀。中学から「先取り授業」でかなり進んだ授業を受けている生徒との差は、1年でほぼほぼ埋まるらしい。
高校2年からは、文、理系にクラスが分かれるほか、それまでの学校の成績、目指す大学により、「選抜クラス」と「一般クラス」に分かれる。

「選抜」は、いわゆる旧帝大、国公立大志望者となる。
授業内容も変わってくる。が、実際の大学入試の結果、「選抜クラス」からばかり、「超難関大」に合格しているかといえば、そうではない。

ここが、先生方、学校側の「悩める」課題のようである。
学校側は、「東大」初め「国公立大」への進学率をもっともっと伸ばしたいらしく、進路指導もその点に基づいているように思う。


市川の親はどちらかというと、「国公立志向」が多い。
学校は、「学校の授業をきちんとうけていれば十分」と必ず言うが、多くの生徒は高2あたりから「河合塾」や「駿台予備校」に通い始める。
それが現実だ。入学時にも、「学校説明会」でも、「学校の授業のみで十分、予備校費用が節約できますよ」なんて話されるが、それは、「嘘」だ。
予備校に行かない子は、ほぼいない。行き始める時期に違いがあるだけ、また、文理系で、選ぶ予備校に違いがあるというだけである。理系は、「駿台が強い」と言われていた。


毎年、市学は、早稲田大の進学、合格者が非常に多く、毎年、100人をゆうに超える。
ちなみに東大は、10数名の合格者。(これも立派な結果だと思う)
ただ、現実は「浪人」も多い。
一浪して、「早慶上理」に無事合格、のパターンが、多いように思う。


私は次男が高校1年の春に病がわかり、不幸にも長期の入院生活、自宅での「リハビリ生活」に突入してしまった。この時、保護者会等は、夫が出席してくれたが、高校の後半、全く、市学のお母さま方との交流がもてなくなってしまったことはとても残念だったし、息子にも申し訳なかったと感じている。



「麻布」「市学」どちらも、それぞれものすごく「個性」があり、どちらがどうとは決して言えない。ただ、麻布は「覚悟が必要」な学校であることは間違いない。「進路指導」も「受験のための授業」もない。
ただ、ものすごく「大人」にはなれる。修学旅行も生徒主導、不祥事連発、でも、卒業すれば、「それでも麻布が良かった」と、必ず思える。
私立中高は、それぞれに独自のからーがある。どの学校をえらぶのか、どの学校があっているのかは、つまるところは「親の選択」になる。それが、「成功」か、「失敗」かは、6年後にしかわからない・・・。

息子二人の中学受験総括

こうして、2009年と、2012年、二度の、二人の息子たちの「中学受験」が終わった。
「感想」、「思い」は、本当にいろいろあるが、「中学受験」を選択したことに、「後悔」は、一切ない。2019年、大学を卒業し、春に新社会人になった長男は、自分の中高、大学時代を振り返り、
「あの時、麻布に入学できたから、今のおれがある。きっと、「人生で一番勉強した」んだろうけど、あの時、頑張って良かったと思える。あの勉強で、実際にいろんなことが学べたし、覚えたから。
麻布の6年間は最高に素敵なイケてた6年間。あのはちゃめちゃな学校じゃなきゃわからない経験が良くも悪くもできたし、中高のイケてる仲間が俺の一生の仲間だから」と話した。これを聞いて、ほっとした。

次男は、市学から、2018年現役で東京理科大・理学部へ。高3までソフトテニスをやり切った。

市川は、麻布とは「真逆」の学校。6年間一度も面談のない麻布に対し、毎年、担任、希望すれば本人との二者または、三者面談がある。
麻布が、全てにおいて「放任」「自由」なのに対し、市川は、全てにおいて「至れり尽くせり」、「面倒見良し」。
麻布の放任に慣れ、自分の性格もプラスして考えると、市川の面倒見は、「過保護」にも思えた。中高生に、「勉強も親の理解、協力は必要」と説き、「学校での生活を把握するよう」言われた。
最初は、「???」の連続だった。
部活のお母さま方とは仲良くできたが、そもそも親が「過保護」だったような気がする。「母親」たちの「種類」が違う気がする。(どちらが、どうというわけではなく)
麻布は「親」もそもそも「放任」、「なんでもござれ」的。「この子たち、なんとかするから」と絶対的に子供を信じている。市学は、「不安」のかたまり。(勉強も生活面も)


特に市川の親たちは、「勉強」にとても熱心で、「大学受験」の心配を中学からしている。だから、「学校側」の「面倒見」を心地よく受け止めている。
真逆の学校にそれぞれを通わせ感じたことは、「結局は、自分」である。
いくら親が学校が、気持ちを入れ込んでも、世話を焼いても本人がやる気にならなければ一向に「やらない」のである。子供たちもそれこそ馬鹿ではないので、「やらねばいけないこと」「始めなきゃいけない時期」はわかっている。「うるさく」言うほうが、絶対に逆効果なのだ。

「自由気まま」、「面倒見という言葉の陰にある「過保護」」、どちらを選ぶかは子供の性格で向き不向きがあるように思う。
それは、親が選ぶしかないかもしれない。
私は、どちらの学校にも深く「感謝」している。
そして、なにより、息子たちの一生の友ができたことに「感謝」している。
ふたりとも、ぴったりの学校に通ったとおもっている。長男は麻布で成長、次男は市学で成長したとおもっている。


たかだか12歳の小学生が、「勝ち」「負け」を争ってしまう「中学受験」。
でも、そこには、必ず、「努力」と「前向きな精神力」が存在する。目標に向かって頑張ると、涙が出るほど嬉しい、悔しい結果が出る、失敗した時の涙で強くなれる。悔しさをばねに変えて再度挑戦できる。
今後の長い人生で必ず向き合う苦労に立ち向かえる・・・

無駄なことはなにもない・・・、全てが有意義・・・とおもっている。
親、特に「母親」は、中学受験においては、サポートを惜しまない、まだまだ、「子供」だから・・・。母親には、「覚悟」が必要。
共に頑張れないなら「中学受験」はさせてはいけない・・・。
中学受験には、「進学塾」に通うことは必至。「学校」の勉強だけで受かる私立中学なんて、もはやないだろう。それには、正直、かなりの「費用」がかかることも事実。いろいろな講座が次から次へ勧められてくる。
通常の授業のほか、夏期、冬期、春期講習が必修になってくる。年間数十万円かかることは必至。私立の学費も年間100万程必要だ。正直、経済力がないとやっていけない。
全て覚悟の上、「中学受験」をしないと、続かなくなる。
私立は親同士のお付き合いも「派手」にあると考えたほうが良い。全てを考えて、受験を、学校を選択すべき。

2011年   第一志望校入試

千葉御三家の入試を終え、気持ちの切り替えも準備も整った。
これは、「練習」、「本番」前の「予行」・・・と言い聞かせ、いよいよ2月1日。
本命、第一志望の「早稲田中」入試。4年の秋の文化祭から思い続けて2年、志望校がぶれることはなかった。
自宅の最寄り駅から、東京メトロ東西線に直結しているので、早稲田駅までは、1本で4~50分。乗ってしまえば、眠っていても着く。登校はいたって簡単。便利だ。
当日朝、いつもの簡単な朝食を済ませ、いざ早稲田へ。電車は丁度ラッシュ時でかなり混んでいたが、なんとか空いた席に座り、グチャグチャ他愛もない会話をしながら過ごした。特に教材を見ることはさせなかった。
ここで、教材や参考書などを見てしまうと、万が一、「忘れてしまっていたこと」や、「わからないこと」に出会ってしまったときに当然「パニック」になってしまう・・・当日、しかも試験直前に焦ってしまうことほど精神衛生上よくないことはない。
だから、あえて「見直し」なんてしないほうがいいのである。

前日の夜、「日能研」の「カリテ」、「模試」の試験用紙の束をリビングで本人に見せた。山のように積まれた用紙を見せて、「ずっと、これだけ頑張ってきたんだよ、だから大丈夫、自信もって」と話した。
「そうだねえ、でも、市川しか受かってないからね」と珍しく、ネガティブな物言いをした。
「結構、きてるなあ、実際は」と思ったが、現実は「現実」として受け止めねばならない・・・だから、なぐさめや特に励ましの言葉等は何も言わずにいた。本人が一番よくわかっているのだから・・・。

早稲田駅」には、受験生がうようよいた。中学は、駅の出口を出るとすぐ。徒歩1、2分だ。正門前のいつもの「塾」関係者の声援を受け、校舎に。
「早稲田」は、なんといっても、入試の時間中、親は、早稲田大学大隈講堂裏にある「学食?」「カフェ?」にて無料で、「コーヒー」、「ケーキ」がいただける!素晴らしいサービス?至れり尽くせりなのである。
噂によると、これらのケーキは、なんと近くにある「リーがロイヤルホテル」のものだとか・・・(真相は定かではない)
私ももれなく、このけーきをいただいた。
多くのお母様方が、不安な表情で、それでも、ケーキを頬張っていた(笑)。

多少いただき、それでもまだまだ時間はあるので、ひとり、早稲田駅からかなり歩いた「VELOCE」で時間つぶしをした。(海浜幕張駅前と同じ)
受験期間中、長男の時も、次男の時もこの「VELOCE」は本当にお世話になった。ひとりで、入りやすく、リーズナブル、ゆっくりできる、といい事づくめ。
ここの「カフェラテ」を何杯飲んだことか・・・



時間つぶしをし、午前中で入試が終わった。
迎えに行くと、やや表情の暗い次男の姿をみた。ものすごく嫌な予感・・・、「東邦」の時とほぼ同じ感覚・・・。でも、いたって普通に、なるべく笑顔で、「お帰り!お疲れ様!」と息子を迎えた。

「はあ~~・・・ダメかもしんねえ」と次男。 「過去問と全然違ったよ」・・・。上手く言葉がみつからなかったので、特に反応することなく、帰途についた。


翌日に発表、早稲田は、3日に第二回目の入試も受けることになっていた。

2月2日は普通に学校に登校、特にどこの試験も予定になかった。4日に「芝中」の願書のみ出していた。

早稲田はネットではなく、あくまでも「掲示」での発表だった(現在はわからないが)。本人は学校に登校していたので、私が一人で見に行った。

正門を入ると、たくさんの親と受験生がいた。ざわざわ・・・。
校舎前に貼りだされた「合格者」の一覧に目をやった。
隅々まで・・・。
息子の
受験番号は見つからなかった。
早稲田1回目は、「不合格」だった・・・。


「どうやって伝えよう・・・」帰りの電車の中、そればかり考えた。


帰宅した息子に、事実を淡々と伝えた。「だめだったよ・・・」とそれだけ。
「やっぱねえ~~」「しょうがない」   自分で感覚的にわかっていたようだ。特にショックの様子もなく
「3日も同じじゃない?」と言い出した。返事はできなかった。


翌日、早稲田2回目の入試。
1日と同様、ラッシュの中、早稲田駅へ。
3日の入試は、1日に受験できなかったひと、または、1日が他の第一志望校受験(開成や麻布など)で、早稲田を第二志望としているひとが殺到するので、倍率も難易度も1日よりも高くなっていた。

だから、理屈で考えれば1日の入試で不合格だったので、3日の入試は、きつくなるのである。そんなことは本人がいちばん良くわかっている。
でも、特に何を言うでもなく、淡々と試験会場に入室していった。
試験中は1日と全く同様にすごした。学食でのケーキバイキング、コーヒー、そのあと、「VELOCE」へ。
大丈夫かなあとひたすら考え、迎えに行った。
息子からは、何のコメントもなかった。
これが、「全て」だった。

翌日、疲れ果てた息子に、「芝」を受けさせる気持ちにはならなかった。
息子も了承。
学校へ登校。「市川学園 市川中学」に進学を決めた。



次男の「中学受験」は終わった。


千葉御三家    市川学園  「合格」
         東邦大付属東邦中学  「不合格」
         渋谷教育学園幕張   「不合格」

早稲田中学    第1回目    「不合格」
         第2回目    「不合格」


    1勝4敗だった。


私にとっては、「大誤算」。
早稲田は、合格を信じ続けていた。


本人は、「敗北感」を強く感じてしまったようだが、「千葉の御三家」であること、「高い進学率」に自信を誇りを持って進学するよう伝えた。
ちなみに、日能研の同じクラスから、「市学」にひとり進学、同じ小学校からもひとり進学した。

日能研の「Rクラス」からは、近所の仲良しが、「開成」へ。もうひとり、中国籍の男子も「開成」へ。麻布はいなかった。渋幕には、結局、3人進学した。女子は桜陰と女子学院にひとりずつ、豊島岡にひとり進学。

冬期講習から千葉御三家入試  

日能研最後の「冬期講習」。あと少しで千葉入試の本番。3年生から通い続けた「日能研」に「恩返し」できるかの瀬戸際だった。お正月は普通に過ごしたが、3日に湯島天神に出かけた。一応、「お参り」。プラス「護摩」を焚き、「祈祷」をしてもらった。これは、長男の時と全く同じである。

正月明けの日能研、誰がどこを受けるか、等々の話題でもちきりになったらしい。「Rクラス」の多くの子が、千葉御三家を3校とも受験していくのは、もうスタンダード。
我が家も早々に3校に願書を出した。千葉の学校は、地元ということもあって、小学校でも、受験する多くの子が試験を受けた。
入試会場で、何人かの知り合いに会うことになった。
1月は、「模試」ももはやなく、「過去問」の出来や、今までの模試の結果と、本人の「状態」で、総合的にいろいろ判断していくしかなかった。
次男の調子は早稲田に関しては「良好」、正直、「受かる」ことしか親子で考えていなかった。
市川、東邦の「過去問」も順調に解けていた。


次男の時も長男と同じように、小学校へは普通に登校させた。インフルエンザ予防接種はしておいたが、「罹ったら罹った時に」という心意気でいた。
このほうが、「生活リズム」が崩れず、絶対にいいと今でも思っている。
また、受験校まで、若干距離のある家庭では、試験前日に母親と本人が近くのホテルに宿泊したりするが、(まあ、雪が降る、電車が止まってしまう・・・などの理由ではしかたないが)これもやめるにこしたことはない、と思う。自宅ではないベッド、寝具でよく眠れるはずがないからである。「特別なこと」という意識が働き、余計に「緊張」すること間違いないのである。だから、前日は、消化の良い夕飯を作り、温かくして、ゆっくり休み、早起きをし、朝食を食べさせ、自分が「通うかもしれない通学路」で会場入りしたほうがいいに決まっている。合格した暁には、ひとりで毎日、「通う」のだから。


「いつもと違うこと」をしては絶対にいけないのである。この年、1月


2012年、1月20日。「市川学園 市川中学」入試。またもやあの「幕張メッセ」である。この日は忘れもしない、冷たい「雨」だった。メッセの会場前に沢山の「傘」の花が咲き、とても寒かった。
メッセ行きのバスを待つ長い列に、同じ小学校の知り合いを数人見つけ、手を挙げた次男は「談笑」していた。
「試験前、休み時間」に食べる「チョコ」を次男にも持たせた。
メッセ会場前に列を作る「塾」関係者。「日能研バッグ」を背負った次男に多くの日能研関係者が声をかけてくれた。「イベント」かのように受け止める次男は「満面笑み」で掛け声にこたえていた。長男と違い、かなりの「緊張」やの次男、この日は、さほど「緊張」はしていなかったように覚えている。

そう、「我関せず」の長男とは違い、次男は、「周りに影響されやすく」、本番」にすこぶる弱いのである。前日から、「どうしよどうしよ」となりがちで、落ち着きのなさが当日朝などにマックスになるのである。
隣の子の「鉛筆の音」を聞いて、「自分よりすごいできそう」と思い込んで、極度の緊張をしてしまう子なのである。
図太い長男とは違い、意外に「繊細」だったのかもしれない。

知り合いに会ったことでリラックスできたのか、次男は「いってきまあす!」と私の元を離れていった。

3時間ほどの時間を長男の時に過ごした「海浜幕張駅」近くのカフェで過ごした。適当に時間をつぶし、メッセ会場まで迎えに戻った。

「たぶん、大丈夫じゃね?」と次男がもどってきた。早めに帰宅し、翌日の「東邦」に備えた。



この日は、特に勉強もせずに、明日の入試に備えて早めに休ませた。
なんでも「いつも通り」が良い。

2012年1月21日、「東邦大付属東邦中学」入試。
最寄りの「大久保」駅からぞろぞろと受験生が長い列を作って歩いていた。昨日と同じ冷たい「雨」だった。
他愛ない会話をしながら歩いているとまたも、小学校の顔見知りに会った。特に何も話さずに学校へ向かった。雨の中、正門を入るとまたも、「塾」関係者が大きく声をかけてきた。
次男が通う校舎のスタッフはこの時はいなかった。
受験番号を確認し、校舎に消えていった。
試験中、学校の学生食堂が解放されていたので、この時は「雨」も降っていたので、学食のなかでお茶を飲みながら時間を待った。
試験終了後、校舎から出てきた次男の表情は、ややこわばり気味。「やばいかなあ」・・・とわずかに思った。
帰途につく中、次男は試験のことを一切話さなかった。私も何も聞かずにいた。

帰宅すると、昨日の「市川」の結果が出た。
まずは、「ネット」で。
何回経験しても、「ENTER」キーを押す瞬間はドキドキだ。

「受験番号」を入力し、「ENTER」を。
『合格』だった。


私も、本人もほっとした。
急いで、市川学園に、書類を取りに向かった。
掲示板の番号を改めて確認し、事務所で入学手続きの書類を受け取った。
「これでひとまず安心」と胸をなでおろした。


翌日は千葉御三家最後の「渋幕」。一番の「難敵」が控えていた。

この日も「合格」を得て安心したものの、なにもせずに就寝した。


2012年1月22日。「渋谷教育学園幕張中」の入試。
長男の時の「上履き忘れもの」の失敗があったので、「持ち物」の点検だけは念入りにし、学校へ向かった。この日も3日目の「雨」。「涙」のようで、いやだった。
正門から校舎までの短いアプローチに、沢山の傘が溢れ、受験生がいっぱいだった。
やや緊張気味の次男は、在校生に案内され、校舎へと消えていった。

また、「海浜幕張」駅前のカフェで時間つぶし。長男の受験時から何度となく通った「VELOCE」。
大好きなカフェラテを飲みながら次男の入試に思いを馳せた。
昨日の「東邦」の結果を案じながら、音楽を聴いてひとりゆっくりと過ごした。


昼前に終わった。
校舎から出てきた次男は、がっくり。「全然できねえ」が開口一番だった。「感想」は何も言わず、近くの飲食店で、昼食を済ませ、帰宅した。

午後1時頃、「東邦」の結果がでた。
同じく「ネット」。
次男の「受験番号」は見つけられなかった。「不合格」。
胸がざわざわした。「ダメだったかあ」という言葉だけで、顔を見合わせた。親の私は正直、にわかには信じられなかった。


翌日から、普通に学校に登校。

私は、ひとり、「東邦中」に出向き、掲示板を確認しに行った。それくらい、「合格してるはず」と、内心いつまでも思っていた。
広範囲に張られた合格者の番号。何度も何度も確認した。「補欠合格」の番号も。

なかった・・・「不合格」は現実だった・・・。胸がしめつけられそうになった。「なんて言えばいいんだろう」・・・そればかり、考えた。帰途、「日能研」に立ち寄って結果の報告をした。「そうでしたかあ・・・」と、やはり、信じられない表情で、スタッフたちは、「早稲田に受かればそれでいいんです」と言った。正直、内心、東邦に合格できずに、早稲田に受かれるの?という思いがよぎっていた。

ひとり、自宅で昼食を済ませ、「渋幕」の結果発表。こちらは、さすがに「超難関」なので、「合格」の可能性は低いかなあと、夫婦で考えていた。
ネットを開くと、番号はなかった。仕方ない・・・あくまでも、予想していた結果だったので、正直、驚くこともなく、渋幕へ確認に行くこともしなかった。
千葉御三家   「1勝2敗」。
特に「東邦」の結果は、親子それぞれの「大誤算」だった。

帰宅した次男は「渋幕」の結果には「案の定」という反応で、ダメージはほとんどなかった。約1週間後の本命・「早稲田」への切り替えにも問題は何もなかった。

千葉の入試が終わり、合格した「市川」に入学金を納めた。